「本が彼に読まれる」という表現について、文法がおかしいと感じていらっしゃるのですね。
以前お話ししたように、「本が彼に読まれる」は文法的には受動態として成り立ちます。しかし、日本語では能動態の「彼が本を読む」の方が一般的で自然に聞こえるため、受動態の形が少し不自然に感じられることがあるのです。
もう少し具体的に見てみましょう。
- 能動態: 「彼がその本を読んだ。」
- 「彼」が主語で、「読む」という動作をする主体が明確です。
- 受動態: 「その本は彼に読まれた。」
- 「本」が主語で、「読まれる」という動作を受ける対象に焦点が当たっています。
「本が彼に読まれる」もこの受動態の形ですが、主語が「本」で、動作の主体が「彼」という構造は同じです。ただ、日常会話では、このような「物」が主語になる受動態は、特定の状況を除いてあまり使われない傾向があります。
もし、この表現が使われている文脈が、例えば「この本は、多くの人に読まれることを期待して書かれた。そして、その期待通り、本が彼に読まれることになった。」のように、本の運命や、誰かに読まれるという出来事に焦点を当てたい場合であれば、文法的には成立するものの、やはり少し硬い印象や、特殊なニュアンスを持つ表現と言えるでしょう。
より自然に伝えたい場合は、文脈に応じて「彼がその本を読んだ」「彼がその本を手に取った」といった能動的な表現を使ったり、「その本は彼に読まれる運命だった」のように、少し文学的な表現にしたりすることも考えられます。
どのような状況でこの表現に出会われましたか? もしよろしければ、もう少し詳しい文脈を教えていただけると、さらに的確なアドバイスができるかもしれませんね! 😊
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